時代・人・くらし。エピソードで綴る、
『MITARIKA』ものがたり。
第1章創業期
『家族を守りたい』という
創業者、千種喜作の思いから全てが始まった
昭和23年1948
- 創業者 千種喜作の決心
- 喜作は家族を養うため、叔父の紹介で理化学機器を扱う綣熊製作所に転職を決める。そこで住友化学の防空壕に埋まっていた瓶を製薬工場で再利用するというアイデアが奏功。喜作はこの経験に加え、人としての信用さえ得ることができれば、ガラス容器のディーラーとして独立できる手応えを実感し、起業することを決心する。
配達する喜作(1950年代)
創業者 千種 喜作(1935年頃)
昭和24年1949
- 三田理化器製作所創業
- 綣熊製作所出入りのガラス職人に声をかけ、1949年に理化学機器の販売を専門とする「三田理化器製作所」を開業。真面目な商売態度と祖父や父譲りの商売センスによって、大きな信用を獲得し、およそ2年で会社を軌道に乗せる。しかし1953年、販売のみにならずメーカーになることを目指した矢先、火災により事務所や資材・商品を焼失してしまう。
1955年頃の本社
本社ガラス工場
1955年頃の本社入口 ガラス製品は竹籠とみかん箱に入れる
新事業への進出が招いた、成功と挫折。
昭和32年1957
- 販売会社から脱却し、製造販売メーカーへ
- 新たな社屋として、偶然にも売りに出た村中医療器の注射器ガラス工場を購入。ガラス機器の製造と販売を開始する。三田理化器製作所が開発した、結核の検査で使用する「結核菌採痰容器」が衛生検査学会で高い評価を受ける。また往復はがきと商報での地道なPRが功を奏し、検査容器はヒット商品に。製造販売メーカーとして技術の信頼と販路を獲得する。
結核菌採痰容器
昭和33年1958
- 噴水式三田万能洗浄機の開発
- ガラス容器の販売が順調に推移すると同時に、検査後の器具の洗浄・滅菌にも喜作は着目する。ガラスが貴重品であった当時、採痰容器や試験管は洗浄・滅菌して再利用する時代。喜作は洗浄機を求める声が上がってくると考え「三田万能洗浄機S型」を開発する。三田理化器製造所はガラス容器の製造から洗浄まで、トータルに提供できる企業をめざして洗浄機の事業領域へと拡大していく。
噴水式三田万能洗浄機
昭和35年1960
- 全国都道府県に代理店を設置
- 好評を得た「三田万能洗浄機S型」に引き続き、1959年に新型となる「噴水式三田万能洗浄機W型」を開発。機器のラインナップも充実し、事業の基盤が固まりはじめる。そして1960年、三田理化器製作所は、大阪の次の拠点として念願の東京営業所を開設する。さらに翌年には、都道府県にそれぞれ1店、販売代理店と取引契約を結ぶほどに成長。日本全国に販売網を拡大する。
1960年 東京営業所開設
展示会に出展(1962年頃)
昭和37年1962
- 理化学機器販売から、病院向け機器メーカーへ
- 万能洗浄機が病院の検査部門以外にも食品工場や化学会社にも求められる。ある展示会では会場で20台以上を受注するなど、ヒットと呼べる売り上げに。この成果を元に、喜作は理化学機器販売から病院向け機器メーカーへの事業拡大を狙う。同時に、新たな分野への開拓としてタバコの葉を乾燥するバーナーで農業の世界への参入を試みる。
昭和39年1964
- 代金回収の誤算が招いた最大の危機
- 新たに「たばこ葉乾燥用バーナー」を全国で販売を続けるも、資金繰りが上手くいかず農業分野を撤退する。医療及び理化学向けの機器や消耗品に専念することを改めて決意。三田理化器製作所でしかできないオンリーワンの製品づくりに集中し、再起を図る。
1960年頃
栃木県農業近代化展バーナー出展1961年
第14回日本薬学大会(札幌)1963年 第17回薬学大会(金沢)
第2章発展期
原点に立ち返り、より大きなステージへ。
昭和39年1964
- 三田理化工業株式会社の設立
- 社名を現在の「三田理化工業株式会社」に変更して法人化。組織変更に着手し、大阪本社にはガラス工場・設計・営業・経理を、三田工場には製造所として三田機工を設置して再スタートを切る。日本が高度経済成長期というタイミングもあり、病院の検査部や薬剤部から設備を次々と受注。会社の立て直しも順調に進む。
1964年の本社
三田万能洗浄機Z型
昭和44年1969
- ブランド「RACOON」の誕生
- 全国の病院から三田理化工業の製品の信頼と実績を獲得し、シェアを拡げていた1969年。滋賀医科大学医学部附属病院薬学部の先生の一言「洗浄は、アライグマ(raccoon)の様だ」からインスピレーションを得て、製品のブランド化が決定。オリジナルブランド「RACOON」が誕生する。翌年には、「ラックーン自動試験管洗浄機T型」、「ラックーン自動ピペット洗浄機」を相次いで開発する。
1970頃
MSZによる哺乳瓶洗浄風景自動ピペット洗浄機
三田熱風循環式
定温乾燥機三田万能洗浄機
加速するオンリーワンの商品開発
昭和46年1971
- 日本初。「調乳」システムの完成
- 第二次ベビーブームの到来に伴い、喜作は乳児のミルク調理に関する人材不足や衛生面での問題点に着眼する。調乳水を製造する「ラックーン調乳水製造機」や調乳室に撹拌・混合・冷却機能のある作業台を設置した「ラックーン調乳ユニット」など、滅菌・洗浄・調乳の一連の設備を完成させる。これが日本で初めての調乳設備の開発となり、全国へ普及する。
1970年
初期の調乳台1975年
開発センター地鎮祭調乳設備
1980年頃
調乳作業の様子
昭和61年1986
- ディスポーザブル哺乳瓶の販売
- 1980年代に入ると「大量生産大量消費」の影響によって、医療機器分野でもガラス容器の循環使用から、消耗品であるプラスチックスや紙製品が主流になる。洗浄や滅菌にとっては逆風の時代に。そこで1985年、三田理化工業は新たに消耗品事業を開始し、翌年には洗浄・滅菌済みのディスポ哺乳瓶「ラックーンディスポ哺乳瓶(使い捨て哺乳瓶)」を販売。病院にも採用されるほどの人気となる。
1981年 日本薬学大会
ラックーンディスポ哺乳瓶
1984年 本社ビル完成
昭和64年/平成元年1989
- ステリ(滅菌)消耗品の拡充
- 開発センター(兵庫県多可郡)に新たな設備を導入し、消耗品の生産体制を整える。次々と消耗品を開発し、消耗品事業が三田理化工業の新たな柱に。『機器』と『消耗品』。お客様の多様性に応えるために、競合する2つの事業を進めることを選択する。1989年にはその言葉通り、薬液充填装置「ラックーンファームテックフィーラー」と消耗品に自動充填する「ラックーンパックスター」など、装置と消耗品の両方で実績をつくる。
ラックーンステリアンプル
消耗品の包装作業の様子
1990年 ファームテックフィーラー展示会
1992年 パックスター展示会
1989年
ステリ・バイアル/ステリ・アンプル1989年
ステリパウチ
第3章変革期
新たなる未来への一歩
平成4年1992
- 千種康一の入社
- 検査容器の主流がガラスからプラスチックスの使い捨てになり、洗浄機器販売は先行きの見えない時代となる。大学卒業後、エンジニアとして活躍していた喜作の長男・康一(現:代表取締役社長)は培った実力で三田理化工業の再建を決意。平成4年、康一は11年間勤めた東レエンジニアリングを退社し、三田理化工業に転職を果たす。入社後、前職で培ったロボット分野の知識を持って、技術と営業の両方から改革。新たな三田理化工業のスタートとなる。
三田理化エンジニアリング設計の歯ブラシ工場設備
平成8年1996
- オンリーワン、ナンバーワンを武器に業績回復
- 売上の回復を目指し、既存製品の改良及び新製品を次々と開発する。『少量多品種生産』『自動化』を推し進める時代となり、康一の得意とするロボット分野の知識を加えることでオートメーション装置の開発にも拍車がかかる。こうして三田理化工業の基盤である「オンリーワン」「ナンバーワン」になり得る技術が、バブル崩壊や阪神淡路大震災、O-157で混沌とする市場を賑わせ、三田理化工業は再び成長を取り戻す。
ボトルクィックエース
1992年 自動分注装置
1998年クリーン調乳ユニット
E-パックボトルとペタップ
平成12年2000
- 千種康一、社長に就任
- 2000年12月、康一が2代目社長に就任。喜作は会長として新たな体制がスタートする。康一はお客様に技術力と品質で信用を勝ち取るために、社屋のリノベーションやシステムのIT化、ISOの取得など、会社の立て直しに次々と着手。ドイツ「BHT社」との提携や情報発信の強化として「インターフェックスジャパン」への出展など、新たな取り組みもはじめる。
1999年 日本パッケージングコンテスト展示
2000年12月 社長交代式集合写真
2002年 インターフェックスNY見学
2004年 インターフェックスジャパン出展
日本の三田理化工業から、
世界のMita Rika Kogyo Co., Ltd.へ
平成16年2004
- 時代の要求に応え、がん分野へ参入
- 2000年代に入り医療技術が大きく進化すると、病院内でも安全性・信頼性を高めるため、日常の業務をいかに検証しながら管理・運用できるかが大きなテーマとなる。この頃に岐阜大学医学部附属病院から、抗がん剤調製の無菌製剤室をを含む、新しい製剤室の依頼を受け、安全キャビネット内にパソコンを内蔵させた「抗がん剤調整支援システムMPSS」を開発。特許を取得する。
抗がん剤調製支援システム
平成16年2004
- 「個の集まり」から「組織」へーISOの取得
- 品質マネジメントの国際的な基準となるISO9001を進め、2004年7月にISO9001:2000を認証取得。また2014年には、医療機器において国際的な基準を満たした製品・サービスであることを示す、ISO13485:2003の認証取得を果たす。「個人」がそれぞれの判断で動く集団から、定められた基準のもとに活動する統率のとれた「組織」へと企業改革が進む。
2004年 ISO9001認証取得披露
ラックーン・レポート 創刊号
平成17年2005
- コンプライアンス時代が組織を強化
- 2005年に施行された改正薬事法に伴い、「高度管理医療機器等販売業・賃貸業」、「第二種管理医療機器製造販売業」、「医療機器製造業」、「医療用具専業修理業(現:医療機器修理業)」の許可を改めて取得。新薬事法に基づく一般医療機器第一号として、単回使用輸液容器「シールステリバイアル」を開発し、販売を開始する。
一般医療機器第一号 シールステリバイアル
平成19年2007
- 世界品質を視野に、飛躍を誓う
- ISO取得と薬事法改正による組織編成が、活躍の舞台を世界へと拡げる足掛かりとなり、海外進出を視野に入れる。日本でのさらなる知名度向上、シェア獲得に向けて精力的に展開した後、2007年、ベトナムへ市場開拓を開始。現地のJICAや医療機器会社、国立産婦人科病院などにプレゼンを行い、この時点では成果を得られなかったが、その後の世界進出の後押しとなる。
2005年 MPSSデモキャラバン
2007年 ベトナムホーチミン産婦人科病院訪問
平成20年2008
- 国内の整備、市場の拡張も順調に進める
- 2008年、消耗品需要の高まりを見据えて開発センタークリーンルームを増設する。また和歌山営業所は本社営業部に統合し、全国の営業を一括管理で行う。2009年には、ホームページのリニューアルに伴い、消耗品の通信販売サイト「ラックーンステリマート」を開設し、スムーズでスピーディな受注環境が整う。
新開発センター クリーン検査室
平成23年2011
- 新開発センターの建設
- 販売チャネルの多角化、広報戦略の多極化、製品の多様化の進展に伴い、より高い品質を具現化できる拡張性のある生産拠点の必要性が増す。そこで2011年、「世界品質の無菌医療機器製造」をコンセプトに挙げた、新開発センターが竣工する。「環境」、「設備」、「人材」のすべてを定期的なモニタリング、バリデーション、教育を通して常に高いレベルを維持することで、お客様の期待を超える製品の生産を実現する。
新開発センター地鎮祭
新開発センター
平成27年2015
- 「乾熱母乳低温殺菌装置」の誕生
- 国内外で母乳保育が推進される中、社会全体で母乳の安全な投与に対するシステムの完成が急務となっていた2014年。「平成25年度ものづくり中小企業・小規模事業者試作開発等支援補助金」に三田理化工業の「乾式母乳低温殺菌装置の開発」が採択され、開発に着手する。そして、世界的な課題を解決する製品「乾熱母乳低温殺菌装置」が三田理化工業から誕生し、特許出願も果たす。
母乳低温殺菌装置
平成28年2016
- 事業の3本柱を確立
- 年々加速する消耗品の事業拡大に伴い、2016年になると三田工場の一部に開発センターと同様にクリーンルームを増設。開発センターの増産を支えられる体制を強化する。また全国に普及した機器のメンテナンスサービスを強化するため、修理受付専用フリーダイヤルも設置。こうして、機器事業・消耗品事業・修理事業の3つの柱が確立される。
クリアシールステリバイアルN
三田工場クリーンルーム作業
IT調乳システム
陰圧トレーナー
平成31年/令和元年2019
- 70周年。そして新たなる世代へ向けて
- 2017年、次女の婿・千種純と次女・千種佐貴子へが三田理化工業に入社し、次世代への事業継承を進める。そして2019年、三田理化工業は創立70周年を迎える。この年を新創業期と位置づけ、「既存事業の安定化」と「新商品開発体制の構築」をテーマに、新たな世代による、次の三田理化工業がはじまる。
毎年夏に開催する技術発表会
健康体操教室
1949年に創業し、1962年に法人化。時代の風を先取する企業マインドを胸に、つねに「オリジナル製品」を提供してきた三田理化工業の歩み。さまざまなチャレンジ、さまざまなイノベーション、そしてさまざまな苦難をもポジティブに乗り越えてきた当社の歴史は、技術を磨き上げきたオンリーワンの歴史でもあります。